結 成 back |
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ライブハウス「アンアン」時代 back |
この頃、喫茶店等で生で演奏を聞かせるライブハウスが仙台にもできてきた。その中に「アンアン」という店があり、ここで毎週土曜日僕らはレギュラーで演奏するようになった。次第にファンも定着してきてオリジナル曲も多くなってきた。武蔵野タンポポ団やシバ、高田渡、外国ではビルモンロー、ドッグワトソンの曲をメンバーは好んでいたと思う。 八木山合奏団にはドラマーはいなくて、アコースティックギター、エレキギター、フラットマンドリン、バンジョーといったカントリーでよく使われる楽器構成だった。ボーカルは高橋勝美、佐々木和司がメインでそれにコーラスやユニゾンを多用していた。 当時よく演奏していた曲は、 長屋の露地に(、高田渡の曲、ボーカルは和司) えんだん(西岡たかしの曲、ボーカルは板橋) 僕のアパート(高橋勝美のオリジナル、ボーカルも本人) 東仙台まで(高橋勝美のオリジナル、ボーカルも本人) 二十二分の汽車(高橋勝美のオリジナル、ボーカルも本人) コーヒールンバ(インストゥルメント) など。 この店でよく活動していたミュージシャンで覚えているのは、ストーミー、稲垣潤一(今は実力のある有名人、ベビーフェイスという2人組のグループで歌っていた)、それと僕らのマネージャーになった高橋清博(ニックネームはQちゃん)、宮沢完治等など。仙台の音楽シーンで他に活躍していたのは、吉川団十郎、岩渕亮、繭、本郷(名前を忘れた)、歌の翼など。他にもいたが名前がすぐに出てこない。 |
NNBB時代と八木山合奏からの脱退 back |
1973年、大学(東北学院大学)に入ってから八木山合奏団とは別に「NNBB(ニコニコブルースバンド)」を組んだ。この頃僕は、ロックやブルースが大好きで、特にE.クラプトンやジェフベック、ジミーペイジといった当時のエレキ小僧なら皆がはまったギタリストを僕も好きだった。当然こういった音楽をやりたかった。 大学の音楽クラブ「TMS」に入り、そこで知り合った同級生で作ったバンドがNNBBだった。 メンバーは、自分がギターとボーカル、ベースが三塚健一、ドラムが鈴木彰の3人だった。他の二人もブルースが好きでE・クラプトンの曲を中心にやっていた。 同じクラブに「名和」君という同級生がいて、部室でE.クラプトンの「ハイダウェイ」というブルースナンバーを完全コピーで弾いていた。これには衝撃を受けた・・・。小学校時代に聞いたベンチャーズの「10番街の殺人」を聞いたのに匹敵するほどだった。この曲は自分もコピーしていたが、難しいところは完璧にできずごまかしていた。それを彼はさらりと弾いていたのだ。 後でわかったが、彼は当事ヤマハで主催していた「ライトミュージックコンテスト」で優秀ギタリストの賞をもらった人らしかった。本当にうまかった。それまで自分はうまいと思っていたが、全然ヘタクソに思えた。それから、ああいう風に弾きたいと強烈に思い練習をした。 エレキギターにどんどんと引きずり込まれていった。 NNBBは、ブルースのコピー中心だったが次第に演奏がうまくなってゆき、ダンスパーティ、学園祭、コンサートにも出るようになった。 カワイ楽器とかヤマハが主催するコンテストにも入賞すようにもなり、賞品にエレキギターやマイクなんかをもらった。1974年、大学2年の秋だったと記憶しているが、八木山合奏団の板橋晴信をバイクの後ろに乗せた時に少しドキドキしながら「俺、バンド辞めるから」と告げた。当時はまだ20才と若かったため、フォーク系の八木山合奏団とブルースバンドのNNBBでは自分の中でそりが合うはずはなかった。 間もなくNNBBにはもう一人のギタリスト高崎三晴が入り4人になった。彼は神主の息子で、よく彼の家で練習をした。TMSは辞めた。 しかし、NNBBは方向性がはっきりせず、自分が八木山合奏団に戻ることになると自然消滅した。この時期は大学4年生でメンバー間にはそれぞれ就職の問題が頭をかすめていたと思う。 NNBBは自分のワンマンバンドだったようで、メンバーには迷惑をかけたかもしれない。高崎とはその後何年か経ってからオフロードバイクを通じてまた付き合いが始る。 |
出戻り back |
僕が1974年に八木山合奏団を抜けた後にギターで狩野俊朗が入った。彼とはライブハウス「アンアン」を通じて知りあった音楽仲間で、ストーミーというグループでギターを弾いていた。 それから合奏団は活動が活発になって、コンテストで優勝するなど実力をつけて1976年にコロムビアレコードから「二十二分の汽車」でプロデビューをした。しかし、その年の秋に彼は合奏団を脱退する。「自分の変わりに、もう一度八木山合奏団をやってみないか?」と彼に誘われた。 八木山合奏団は自分からやめたのだし、既に八木山合奏団はプロになっていた。どうしょうかと迷ったが、プロでやれるのは凄いことだと思い引き受けた。2年足らずの出戻りであった。大学4年の秋だった。 彼はバンドを辞めてからすぐにクラウンレコードの営業マンに就職した。後にコロムビアレコードからクラウンレコードに移籍できたのは彼のおかげだ。 初練習に行ったら、皆は以前と変わらず笑顔で僕を迎えてくれた。しかし、バンドは成長していた。そう難しくはなかったが、今までにはあまり意識していなかったフレーズというものを強く意識させられた。NNBBのようなブルースバンドだと感性のみの即興演奏といっても間違いではないと思うが、今度はビートルズのように歌と歌のつなぎを大切にするフレーズをきちっと弾くことが求められた。高校生のドラマーが試験的に練習に来ていたが、程なく自衛隊に就職が決まりメンバーにはならなかった。 仙台のコロムビアレコード社屋の4階が練習場でここに集まり毎日のように練習した。遅くなると管理人さんによく小言をいわれた。その日の機嫌でコロコロ変わるので皆で陰で「風向き」と呼んでいた。懐かしい。 コロムビアの建物はもう今はもうない。背の高いマンションに変わっていた。 |
プロ活動の始まり back |
合奏団に戻ってからの最初のステージは、仙台駅前にあったエンド-チェーンというデパートだったと思う。バンドは1階にあるサテライトスタジオというところで、毎週土曜日午後3時からのレギュラーをやっていた。東北放送が毎日お昼に、ここから生でお客さんのリクエストに答えてオンエアしていた。 当時使っていたギターはギブソンのSGモデルだったが、エレキの音質はストラトキャスターがバンドにあっているように思え、前のギタリストの狩野が使っていたフェンダーのストラトキャスターを借りて弾いていた。 ファンにサインを頼まれたり、誰にもらったかは覚えていないが、ファンレターをもらったりで全てが初体験で嬉しかった。そして誕生日になるとプレゼント、バレンタインデーになるとチョコレートなどを結構もらった。また次第に演奏で泊まりも経験するようになり、日立のローディというステレオの宣伝で、東北の各地を演奏して回った。またライブハウスでの演奏も多くなっていった。日産のチェリーキャブというバンに楽器満載、人間も定員ギリギリでの移動だった。 車中の会話は途切れることはなく、ここでは書けないような「究極の選択」的な危ないゲームがあり、面白かった。食事はドライブインですることが多く、ラーメンとカレーライスというような、何々と何々という組み合わせが多かった。 当然ギャラももらうようになり、念願のフェンダーのテレキャスターを買うことが出来た。演奏の出演料は必要な経費を引いてメンバーにマネージャーを加えた頭数で割って均等に分けていた。ひと月にどれくらいもらっていたのか覚えていないが、平均すると7、8万位だったと思う。 活動はラジオ出演も多く、特にNHKのFMに出たときのエピソードは面白い。 高橋勝美が生放送中に、レギュラーでやっているエンドーチェーンサテスタをマルに遠と書く所で毎週やっているとか、NHKの聴取料は自分は払っていないとかといった危険な発言を連発し、マネージャーが後でNHKに大目玉を食らった。 彼は話が上手でその話を期待するファンも多かったのは事実だ。また下ネタも得意で、のると話の方が演奏より長くなるということもたびたびあった。とにかく毎日が楽しかった。 |
初レコーディング back |
1977年の春にシングル第2弾の「ノスタルジー」のレコーディングがあった。他のメンバーはもう体験済みだったが、僕にとっては初体験で楽しい思い出しか残っていない。東京赤坂にあるコロムビアレコードのスタジオで行われた。 始めて入るレコーディング室、ミキサーの大きさに驚いた。また、JBLの大きなモニタースピーカーから出てくる音は圧巻で、今までに聞いたことの無い音質だった。 担当のディレクターも偉い人に思えた。 泊まりは赤坂のホテル。東京のど真ん中、興奮していた。 確か2泊3日位で録音は終ったと思う。ノスタルジーではエレキギターを弾いてさほど時間もかからずO.Kになり、B面の「くぬぎ崎部落に夏が来る」ではベースを弾いた。何だかいっぱしのミュージシャンになったような気分を味わった。 レコードは7月に発売になり、曲がラジオから流れた時は興奮した。嬉しかった。地元ラジオや有線放送では結構流れたノスタルジーだった。アレンジは変えたが、この曲は今でも必ずやっている。 |
ウォーターメロンオフィス設立 back |
1978年になると、コロムビアレコードの練習場が使えなくなり、自分らの事務所を持つようになる。場所は仙台市郊外の向陽台という団地の中にある一軒家で、車も5、6台は止めることが出来た。事務所名は「ウォーターメロンオフィス」と命名した。確かマネージャーのQ氏の発案だったと思う。スイカという意味。バンドの車も小さいものからニッサンのホーミーという9人乗りのバンに変えて、車体に大きく「八木山合奏団」と看板を書いた。これから新しいことを始めようというみんなの意気込みがあった。 事務所にはQ氏が在住し、昼過ぎにメンバーが集まり毎日練習をした。裏に小学校があり、よく子供らに窓越しにのぞかれ「オッチャン、サインくれー」といわれた。大きな音を出していたが、子供の声や騒音が出やすい小学校の隣りだったためか苦情はまず来なかった。 自分達の練習場、デモの録音、コマーシャル録音、そして色んな人が訪れた事務所だった。 この年宮城県沖地震をここで体験した。6月12日の夕方だったが、事務所が「ガタガタガタ!」と立っていられないほど大きく揺れた。初めて体験する大地震だった。外にとめて置いたバイクが倒れたくらいで、幸い事務所に被害はなかった。しかし、近所のブロック塀が倒れて人が亡くなった。帰りの国道4号線は、道路に段差ができていて大渋滞。自分はバイクだったので帰れたが街も大渋滞で、煙や火の手が上がっているところも見えて不安になった。自分の部屋についたら、ステレオのスピーカーが落ちていてギターに直撃。風呂の浴槽が大きくずれていた。近所の斜面が崩れ、バスの通るメイン道路はしばらく通行止めになった。ベースの板橋晴信の家では食器棚が倒れ凄かったらしい。仙台では団地や地盤の弱いところで特に被害が大きかった。電気・水道・ガスが止まったり、道路が崩れたりと今までにない地震を体験した。 |
高橋勝美の脱退 back |
1978年の秋頃だったと思うが、リーダー的な存在だった高橋勝美が脱退した。とても元気な人だったが、心身症になってしまいこれ以上はもう続けられないということだった。その少し前までは和司とプロレス技を研究したり、家にはベンチプレスを置いて鍛えていたのだが・・・。メンバーは皆驚いた。しかしそういうことでは仕方がなかった。これは八木山合奏団にとっては大きな出来事だった。 バンドでのしゃべり、ボーカルも多かっただけに、彼がバンドのカラーを決めていたと言っても過言ではない。その彼の脱退は、それまでの八木山合奏団のイメージを大きく変えた。5年間一緒に活動したのだが残念だった。 彼はそれまで使っていたオーベーションを安い国産の「ペペ」というギターと交換してくれた。そのギターはネック修正、フレット打ち換えをしたが今も健在だ。 しかし、数年後再び僕同様に高橋も出戻りとなった。今度は打楽器のパーカッション担当で、また素晴らしい歌詞も提供してくれた。それが今のR&Kに今も色濃く息づいている。 歌詞に関しては、独特な世界観を持っている人だ。 |
ドラマー久保純の加入 back |
高橋勝美が抜けてから暫定で3人でやっていたが、高橋が抜けた穴は大きかった。どうしてもその穴を埋めねばならず、皆で以前からバンドに欲しかったドラマーを入れようということで意見が一致した。 ベース板橋晴信の知人の久保純が新たにドラーマーとしてバンドに加わった。彼は栃木でピアノのセールスマンをやっていて、しばらくは仕事があるたびに仙台と栃木を車で往復してくれた。同じ大学の先輩にあたり、F研(フォークソング研究会)出身で顔の広い人だった。 高橋が抜け久保が加入してからは自分も曲を作るようになって、少しづつボーカルもとるようになった。バンドは以前のカントリーフォークからビートの効いたロック色の強い音になっなった。高橋勝美がボーカルをとっていた「ノスタルジー」などは全く別な感じになった。和司も曲によってはエレキギターを持つようになり、エレキギター2本、ベース、ドラムの形態が多くなってきた。 彼が入っての新生八木山合奏団ということで、NHKFMの公録で演奏してから踏ん切りがついた。しかし、高橋のボーカルが無くなってしまったため印象はだいぶ変わったと思う。久保はおそらく、高橋がいるところに本当は加わりたかったのではなかったか。 和司はやらなかったが、他のメンバーといわゆる「ハコバン」をするようになった。仙台にある居酒屋「ポパイ」というところと、さらにもう一軒掛け持ちをした。夜の7時から12時過ぎまで、1軒あたり5ステージを演奏していた。成田さんという人が歌い、自分達はそのバック演奏をした。オリジナルではなく人の曲なのだが、割り切ってやった。半年もやっただろうか。お金にはなった。 |
レコード会社の移籍 back |
ノスタルジーを最後に、コロムビアレコードはデモ曲を送っても全然感触が悪く、次第に疎遠になり1980年には契約が切れた。そんなある日板橋と一緒に仙台にある「荒浜」という海水浴場に泳ぎに行った時、クラウンレコードに就職した以前のギタリスト狩野に偶然出合った。「今どうしてるの?」という話になり、コロムビアレコードとの事情を話したら、「デモを聞かせて」という話になった。 |
アルバムLOOP back |
これまでは、レコード作りはクラウンレコード主導型でやってきた。だが、アルバム「LOOP」では全て自分達のコンセプトでの作品となった。作詞で参加していた高橋もパーカッションで正式メンバーとして復活し、メンバーは5人になった。 このあたり僕は、人は何のために生まれてきたのだろうとか、死んだらどうなるのか、霊は存在するのか、何で幸せな人がいて不幸な人がいるのだろうとか、地球は何で自転しているのか、極微の電子の世界も結局回っている、このエネルギーは一体どこから来るのか、キリスト教と仏教など宗教は根源的なところでは結局同じではないか、などといった大きな哲学的ともいえるテーマについてしょっちゅう考えるようになった。これは時を同じくして高橋も同じで、よく二人でその関係の書物を読みあさったりしてこうでもないああでもないと話し合った。 和司もやがてこの話に巻き込まれるようになった。 それからおおよその見当がついたのは、物事には必ず原因と結果があるということ、宇宙には人格神などではなくとてつもなく大きな意思があるといった共通の認識を得るようになった。 そういった考えを中心にアルバムは作られた。また高橋の歌詞には、ほのぼのとした昭和30年〜40年代のごく普通の家庭の生活描写が描き出されていてそれも隠し味になっていると思う。1984年にアルバム「LOOP」は発売になった。 今聞くと中身はとても濃いアルバムのだが、いかんせん歌が下手だった。詰めの甘さを感じる。 R&Kをやっている今、歌はだいぶましになったのだなあと感じる。LOOPは今でも歌っている。 |
ウオーターメロンオフィスの閉鎖 back |
1985年には、それまでの結成以来のマネージャーQ氏だったが、福島で車のセールスをしていた久保の後輩Tがマネージャーに加わった。 バンドが売れない大きな原因のひとつに営業のまずさを考え、その打開策として営業バリバリのTに来てもらった。実際Tは動いて地方の青年団とタイアップしてコンサートを企画したりして仕事の数はある程度増えた。しかしTの金銭面や私生活のちょっとしたトラブルがあり2年ほどで去っていった。その後彼は福島で音楽事務所を構えたが今はどうしているのかわからない。 この頃は、メンバーはすでに皆家族持ちとなり、生活維持のためにはバンド以外のアルバイトは避けられなかった。1988年あたりから向陽台の事務所はメンバーがそういった状態になったため、休日にしか練習ができなくなってきた。それがだんだんと仕事の入ったときにのみ、街中のスタジオで練習するようになった。 そうしているうちに向陽台のウォーターメロンオフィスは閉鎖になった。その後Q氏が事務所を倉庫として借りた。Q氏は「オフィスQ」を設立し、自立した。自分と和司はそれぞれ就職することになり、別グループの「R&K」を結成した。板橋も定時の仕事についていた。久保はさとう宗幸さんのマネージャーになり、高橋はすずめ踊りと和太鼓奏者で活躍しだした。 皆別の道へと歩まざるを得なくなっていた。 |
八木山合奏団の現在 back |
八木山合奏団は、ここ数年活動がなく、名前だけになりつつあったが、 2003年4月29日、4年ぶりのライブがあった。それがほとんど4年間のブランクを感じさせないくらいの演奏だった。板橋や自分以外は音楽活動はあまりやっていないはずなのだが・・・。 メンバーそれぞれの人間性がかもし出す30年間の年輪といったものが今回音として確実に現れたような気がした。バンドカラーが強烈になった。このバンドのすごさを感じた。 2003年ではや結成30年になった。何となくメンバー間ではこの30年目を区切りとして記念ライブをやりたいなという意識があったが、メンバーの「のんびり感=面倒がり」が出た形で、結局31年目の2004年11月に「八木山合奏団31年目のライブパーティ」と称して、少し大きめなライブを行った。メンバーの予想に反して150人ほど入り、大満員で盛況の中終える事ができた。 やる前の練習ではあまり気合が入らないし、いろいろと考えて気が重かった。でも当日、会場のお客さんを目の当たりにしたら、「やらねば、やるぞ!」という前向きな、以前このバンドを夢中でやっていた頃の感覚に戻った。 演奏していて楽しかった。喜んでくれる人がいるんだなあと実感した。若い人も結構いたが、大半は自分らとリアルタイムで生活や音楽を共にした人たちだったと思う。沢山の拍手をもらった。終わってからお礼や激励、感謝の言葉を多数もらった。 そうか、やはり音楽は「夢」を「元気」を与えられるんだな。 2005年暮れには、TBCラジオの仙台フォーク絵巻という番組の公開録音で、演奏した。 新しいことは望めないが、続ける、とにかく続ける、それがこのバンドの使命だと思う。 今度はいつライブをやれるのか。それは僕を含めたメンバーの意識にかかっている。是非40周年ライブはしたい。そうなると僕は58歳か、やれそうだな、楽しみだ。 自分らの才能を信じて音楽を正業とすることにトライした八木山合奏団。思いは達成できたとは言えないが、今わかることは、はっきりとした自分らの足跡を残せたということだ。やったことに悔いはない。今は八木山合奏団を誇りに思える。 そしてこれからもきっと続けてゆく。 黒津隆二 |