八木山合奏団の低迷                  back

 全国的には有名ではなかったが、メジャーデビューしていたので東北では知っている人は結構いたはずの八木山合奏団だった。しかし活動が低迷してきたのは、アルバム「LOOP」をだしてから4年ほど経った1988年頃だったと思う。デビューしてから12年が経っていた。

 この頃になると自分を含めてメンバーが全員が家庭を持つようになり、以前のような気楽な一人身のときとはだいぶ状況は変わってきた。
 レコードは売れず、仕事も減っていった。営業専門のマネージャーを頼んだりといろいろと手立ては立ててはみたもののうまくはいかず、生活が次第に重くのしかかってきた。そうなると当然確実な収入の得られる仕事を他に持っようになる。

 本業である音楽は遠のいてゆき、次第にバンドばらばらになっていった。 やはり、経済には勝てなかった・・・。
                           R&K結成                      back
   
 バンドの低迷が続く中、「こんな状態をだらだらと続けても結果は目に見えているので何とかしたい」とボーカルの佐々木和司とはよく話をしていた。そしてハーモー重視で質の高いユニットを結成しようと意気投合し「R&K」を結成した。名前は「サイモン&ガーファンクル」を意識したのだろう。

 二人ともあせっていた。模索している中での答えだった。今思えばそれをやりたかったのは事実だが、全てではなく自分の音楽の一部分だったようだ。

 まずはデモテープ作りを始めた。録音機材は和司のカセットの4chMTRだったが、有難いことに彼の不動産業を経営する知人がスポンサーになってくれたので、8chのMTRやミキサーなど録音に必要な十分の機材を揃えることが出来た。デモテープ作りは茂庭台にある彼の一軒家で熱い情熱の中で毎夜続けられた。

 何ヶ月かかけて録音した自信作を持って以前世話になったレコード会社を訪ねた。レコード会社は褒めてくれたが、後は実績がないとと期待していたレコード化はやんわりと断られた。ショックだった。
 今思えば不思議だが、ほかのレコード会社は何故だか当たらなかった。

 R&Kは1989年〜1995年あたりまでが活動時期だったと思う。そう多くはなかったが東京や仙台でライブをやったり、ちょっとしたイベントに出たりもした。中でも八木山合奏団のデビュー当時からお付合いのあるありのまま舎の催すイベントではお世話になった。和司とは本気でR&Kで食おうとしたがそうそううまくはいかなかった。

 1996年だった。非常に残念なことに和司の奥さんが病気で亡くなってしまった。和司自信も相当落ち込んだと思う。R&Kは段々と活動は低迷していった。デモテープは夜中や休みの日に録音することが多く、彼の奥さんにはよく手料理を作ってもらったりしてとても世話になった。心から冥福を祈りたい。また、和司が数年前に左指を怪我してしまいギターを以前のように弾くことが難しくなった。フィンガリングが得意だっただけに大変に残念だった。しかし、2003年になってR&Kは復活ののろしが上がった。
2006年の春の時点で、ほとんどR&Kの活動が中心となっている。

でも、自分という人となりを出しやすいソロは好きだ。まずはソロが出来てないとR&Kもないと思っている。
                         仙台すずめ踊り                   back  

 当時1987年、NHKで大河ドラマ「独眼竜政宗」をやっていて地元仙台では大いに盛り上がっていた。仙台城築城の際に石工が踊ったという伝説に基づいて「仙台すずめ踊り」というお囃子と踊りが作られた。それに関わっていた八木山合奏団のメンバーである高橋勝美さんに誘われてお囃子のメンバーになった。僕はお祭りでよく見かける「トンテケトンテケ」の小太鼓をたたくようになる。何か新しいことをやりたかったのだと思う。この伊達政宗の盛り上がりとともに仙台で毎年5月に「仙台青葉祭り」が行われるようになりこれに参加するようになった。1月の裸参りでは厳寒の中、太鼓を鳴らして市内を練り歩いた。

 全国にすずめ踊りをアピールしようということで仙台市も強力にバックアップしていた。タイミングよく日本からのブラジル移民90週年記念イベントに乗ることができ、地球の裏側のブラジルまで行って太鼓を叩いてきた。これにはちょっとしたエピソードがある。当日、成田空港に大太鼓の担当者が現れず肝心のブラジルイベントでは自分が大太鼓を叩く羽目になった。緻密に計算されたステージは不可能になったが何とか基本技で乗り切った。それまで小太鼓だったのがこれを機に大太鼓になった。

 すずめ踊りでは独特なお祭りの楽しさを教えて貰ったが4年ほどで引退した。自分のやりたいことは他にあるように思えた。ブラジルで泊まったホテルの窓の前に広がるコパカバーナの海岸が綺麗だった。海岸を歩くと通貨危機で使えなくなったクルゼイロ硬貨が所々に光っていた。
                         ソロ活動の開始                    back

 1990年あたりから個人での音楽活動が始まり、気仙沼のアーティスト尾形和優さんのライブのバッキングや録音の手伝いが多くなってきた。これは今も続いている。尾形さんとは昭和56年あたりからの付き合いで、彼は平成に入ってから東芝EMIでプロデビューしている。僕のギターの腕前を気に入ってくれているありがたい理解者の一人だ。

 それから地元のアマチュアのデモテープ作りやさとう宗幸さんのちょっとしたスタジオの仕事もするようになり、一人でやるのもいいもんだなと感じた。また昔の音楽中間が作っている「リジョイス」というバンドに誘われ時々ギンギンのクラプトンを弾かせて貰ったりしている。このバンドのメンバーのうち2人がクリスチャンで、クリマス時期にはこのバンドで毎年地元の教会で小さなコンサートもやっている。そのクリスチャンであるキーボードの石川望さんはなかなかオリジナリティがあるミュージシャンで、同年代の中間では有名だ。弟の信太郎君もクリスチャンで大のクラプトン好きだ。いいベースを弾くし歌も渋い。
                           CDの製作                     back

 これまでのこういった人たちとの交流が刺激にもなって昨年2001年の秋から自分のアーティストとしての形をはっきりさせようと思いCDの製作にとりかかった。自宅で作業は行い一部の作品を除いて一切がっさいを自分一人で仕上げた 。そして2002年7月に完成した。

 今まで人のバッキングなどをやっているときに八木山合奏団やR&Kでも歌っていたのだから黒津さんにもちょっと1曲みたいな感じで歌うことはあったが、これはソロといえるかどうか。自分の中にも正直照れがあった。
しかし自費製作のCDを出してからは、気構えが変わってきた。ソロ活動がはっきりと楽しくなってきた。歌っていて楽しいのだ。照れはまだ少しはあるが気にならなくなってきた。当然やった結果は直接跳ね返ってくるので厳しさはついて回るが自分には向いているようだ。しばらくはソロで活動しようと決めた。

 バンドでやることの楽しさは忘れていない。気の合った中間同士でものを作り上げ、それがうまくいったときは一人では味わえない達成感がある。そのことは十分承知している。

 歌はそれほどうまくはない。でも、歌いたいという気持ちは以前では考えられないほど大きくなっている。八木山合奏団時代の自分を良く知っている人は歌よりもギターのイメージがずっと強いはずなので、「あれ、ギターじゃなかったっけ?」といわれそうだ。

 これからは聴いた人に「よかったよ」といわれるよう力を注ぎたい。歌心を大切にしてそれとちょっとばかし得意なギターも合わせて表現できればといいと思う。感情が伝わればいい。
一人でやる方が今は表現しやすいと感じている。でも気の合った人とセッションのような形でやることもあると思う。色んな人とやるととても得るものが大きいしとても楽しいから。

 年をとって爺さんになって女房の前でギターを弾きながら歌うなんて絶対にカッコいい。また近所の同じような爺さん婆さん連中の前で歌ったらきっと楽しい。そんなこともふと考えている。

 ソロはまるでマラソンのようだ。いかに自分らしく表現できるかが全てだ。
歌心を大切にして、音楽に対する自分の思いを表現したいと思う。道はまだまだ続くと信じて。
                         ギターについて                    back

 ソロを始めてから、使うギターはアコーステイックギターになった。エレキギターでは音の抑揚があまりつけにくい。単調になりやすい。というよりエレキギターは本来大きな音を出すためのものなのでボーカル1本にはそれほど向いていないのだ。そして曲数が多くなると、やはり弾き方にも色々と変化をつけたくなる。あるときはストーローク、あるときはフィンガーリング、またあるときはその中間のように・・・。まあ、エレキギターでもやりようなのだろうが、今はいいかな。

 当初は音が柔らかで抑揚のつけやすいタカミネのナイロン弦仕様のエレアコを使っていたが、スチール弦のアコースティックギターは音に張りがあり表情が付けやすく最近はこちらの方が使う機会が多い。メインはオベーションたが、弦高が高くてちょっと弾きにくいので、MASADAのギブソンJ200モデルコピーという30年くらい前のギターもこの頃ちょくちょくと使っている。バランスがよく弾き易いのだ。しかし、P.Aのないライブでは、パワーではオベーションに全然かなわない。大きい音が出るというのはとても大切なことなのだ。

 これまではマーチンの000シリーズか欲しと思っていたが、@ピッチが合う、A大きい音が出る、B音のバランスがいい、のであれば要は何でもいいのだ。ただし、こういう条件を満たす値段の安いギターにはあまりお目にかかれない。この条件を満たすには、どうしてもある程度のお金を出さないと難しい。

 欲しい欲しいではイカンと発奮して、2007年1月に色々と店を歩き回って、結局音のバランス、鳴り、ピッチが合うということでマーチンのD-28を購入した。
 それから1年も経たないうちに、リハーサル中にストラップが外れてボディにひびが入るというアクシデントに見舞われたが、修理をしてから、フィッシャーマンの「Ellipse Matrix Blenndo」という、サドルに埋め込むピエゾタイプのピックアップと、サウンドホールからコンデンサーマイクで音を拾うというデュアルタイプを取り付けた。このピックアップは生音に近い音がするので気に入っている。今はライブにレコーディングにとメインで使っている。ただしコンデンサーマイクなので、ライブでは注意しないとハウリングを起こしやすい。
 マグネットとコンデンサーマイクの組み合わせも試したいところだ。

 弾く時は基本的にはピックは持たないが、パワー感の欲しい時は持つ。フィンガーリングが多いが、ストロークの時は人差し指や中指を加えて弾く。爪は、以前はベース音に張りが欲しいので親指をある程度伸ばしていたが、今は皆切っている。

 コード独特の響きの美しさとコードの押さえやすさもあり、カポタストは使う。また、ハーモニカホルダーにブルースハープというスタイルもこの頃ようやく様になってきた感じだ。ソロにハーモニカは大きなサポート楽器になる。
 このところ、6弦ドロップDやDADGADなど変則チューニングを研究中だ。なにもレギュラーチューニングばかりがギターではないということが分かってきた。

 ステージをこなすに連れてスタイルは少しづつ変わっていくとは思う。と同時にしゃべりやエンターテイメント的なことも重要なのでそれを学びながら歩みたい。先は長い。

                                                            2008.8.4